記事No.43 機能不全家庭が及ぼす精神疾患(うつ病など)への影響例

心理学

はじめに

アダルトチルドレンやうつ病といった精神障害は主に機能不全家庭が生み出す愛着障害、毒親といった要因が重なったトラウマティックな出来事(複雑性PTSD)が積み重なって引き起されています。
そのような機能不全家庭が及ぼす影響について、当催眠療法を利用しアンケートに協力して頂いた方の事例を紹介いたします。

父親の厳格なしつけが原因で結婚後うつ病に

生い立ちと精神障害

・M.Aさん(男性 32歳)
・両親 父が厳しく、母は父の顔色を伺う
・会食恐怖症、睡眠障害、うつ病

このたびは、大変お世話になりました。
おかげさまで、朝はジョギングできるほどまで体調がよくなり快適な毎日をおくれるようになり大変感謝しております。
それでは、私の生い立ちについて書かせて頂きます。

父親は厳格な性格で、母親は父の顔色を窺い、何をするにも父親の許可が必要な家庭でした。
食事時は喉が通らず、父親が帰りが遅いときは急いで食べて逃げていたせいか、成人してから飲み会などに参加することがとても苦手です。(会食恐怖症
小学時代、両親の監視が行き届くようになり、成績は1番を要求され、悪いと罵倒されたり叩かれるなど、家庭にいる時は感情の抑圧のはけ口はありませんでした。

中学生になると、人目を気にするようになり、特に女子生徒に対し緊張し、自意識が暴走し話すこともできなくなります。
学校も、家庭も逃げ場がなく、学歴と試験のみが自己証明できるものと死にものぐるいで勉強をしていました。
そのため、成績はよく、先生からは良く褒められ優等生ではあったのですが、融通のきかない人間で、コミュニケーション能力も身についていなかったため、友人関係では、生意気と思われていたのか、よくいじめられていました。
これでは不都合だということで、 道化として笑いをとったり、また目立たないようにしたりして周囲に好かれようと必死でした。

親の希望する大学に入れたことで、母は安堵し喜んでくれたのですが、父からは褒めてもらえませんでした。
父親より高い学歴を上回り、見返すことができたものの、大学に入ってからは目標を失い、何をすればいいのか、何を生きがいにしていいのかと空虚な気持ちになり不眠症が始まります。

無事大学は卒業し、一部上場企業に就職するも、職場で同僚とそりが合わず、人間関係のスキルのなさから上司からも忌み嫌われていました。
職場にストレスを感じ、次第に睡眠障害も進行して悪化し、うつ病の初期段階が始まったのもこの頃からでした。
恋人ができ、恋愛中はホッとし救われた気持ちでいましたが、失恋をしてしまい、一気に倦怠感、不安感が押し寄せてきました。(抑うつ病発症
さらに、職場の人間関係もがんじがらめになり、人の妬みや陰口で心身共にすり減り、学生時代のような負けん気も、気力も湧かない自分に戸惑うことになります。
この時、精神的な健康を回復する場所も機会もなく、家に帰っては寝てばかりでぐうたらな生活をしていました。

その後、別の女性と結婚し、幸せも感じることができたが、同時に重圧ものしかかってきました。
「満足に自分を扱いきれないで、家族を養うなんてできるのか・・?」
これが将来への不安、プレッシャーになっていくようになります。
子供が生まれ嬉しい反面、これから大変だと感じ、ついに本格的にうつ病になっていきます。
何をする気も起きない、仕事に行きたくない、ずっと寝ていたい、胸騒ぎがする、動悸も激しい、不安でいたたまれない、汗が異常に全身びっしょりかく、気が晴れない、胃がもたれる、そして眠ることができない・・・。

父親がよく口癖にいっていた
「だめ人間になるな」
ということに必死の努力のかいもなく、私はなってしまったと思いました。

そして、自殺をしようとしましたが、家族のことを考えて未遂に終わったこともあります。
当時、精神科で治療を受けていたのですが、副作用に苦しみ、自殺未遂を起こしたのは、抗うつ剤の副作用だったのかもしれません。
今ではそういう症例が多数報告されているから、社会的に認知されてきましたが、当時は知らなかったので安易に医師を信じ薬を服用していました。
だが、抗うつ剤服用による副作用で自殺未遂を起こしたのはあたっていると思います。
そして、精神医療の限界を私なりに感じています。

うつ病を発症してから、数年間治らず途方にくれていましたが、御社の催眠療法を利用することで、うつ病の憂鬱感もあっというまになくなったのはとても驚きました。
今は抗うつ薬を服用せず、自殺未遂を起こすようなことはなくなりました。
これは、本当にすばらしい療法で、今は健康療法として日々利用させて頂いております。
人生の転機をもたらして頂けたことに感謝いたします。

補足

うつ病を伴う方は、大人になるとパーティーなど皆が集まる会食や会話が苦手(会食恐怖症)な方が多い傾向にあります。これも、家庭内で親とのコミュニケーションが希薄で上手く機能していないことが原因であることが多々あります。
結果的に、人前にでて行うプレゼンも苦手であったり、異性とうまく話せず彼女ができないといったことに繋がり、結婚へも影響がでてきます。
会食が苦手であるということは、将来的にうつ病発症に繋がるリスクが潜んでいるともいえます。

甘えることができない性格がうつ病のきっかけに

生い立ちと精神障害

・S.Aさん 40代男性
・父親:非協力的 母親:ヒステリー気味
・うつ病、睡眠障害

能力を開発したい、
くよくよ悩まない自分でありたい、
これまでの人生を大きく変えたい、
といった願望を実現させるためにいろいろ自分で試してきました。
自立訓練法や催眠療法、成功法則、瞑想、引き寄せの法則、呼吸法などです。
ですが、あまり変化がありませんでした。

私には2歳離れた自閉症の弟がいまして、弟の存在が大きく影響を与えていたように思います。
弟が子供の頃は、目を離すとどこか飛んでいったり、物を壊したり、気に入らないと本気で殴ってくるなど手におえず母親が苦労していました。

父親は非協力的で、母といっしょに弟の世話をしていましたが、母はそんな父の冷たい態度にヒステリー気味で、近寄りがたい存在。
そのため、
「母親を困らしてはいけない」
と思い、甘えずに何でも自分でするようにしていました。
デパートに行っても、
「おもちゃを買って」
など言えず、弟の子守をしていました。

小学校入学式のとき、父親は仕事に行き、母親は弟を家に閉じ込めて体育館で行われていた入学式に参加していましたが、教室に入るときには弟が心配で、いつのまにかいなくなっていました。
小学3年の頃になると弟も入学し、母親と弟も学校に来るようになったのですが、学校の障がい者が自分の弟だというのがバレるのが嫌だったため、びくびくする毎日で、弟に合わないように注意し、その不安をかき消すため、人前でひょうきんにふるまっていました。

また、小学4年生になると、母に連れられそろばん塾の申し込みに連れていかれたのですが、
その時、弟は一人家の中に閉じ込められていました。
塾の受付で列に並んでいた時、最後尾のほうで待っていたのですが、なかなか自分の番に回って来ず、母親は弟が気になり痺れをきらして、私を置いて帰ってしまいました。
そのとき、知らない場所で一人ぼっちにされ、強烈な不安に襲われた記憶があります。
小学5年になると、弟が手に負えなくなったため施設に入れられます。
それまで弟中心の家庭であったため、家の雰囲気が変わり関心は自分に向かうようになりました。
小学校時代は、甘えることができなかったため、何でも自分でしてしまう性格になってしまいましたが、中学校になると、
「何たべたい?」
「何かほしいものある?」
と言われ、愛情を初めて感じるようになります。
しかし、このときちょうど反抗期の時期であったこともあり、母親に甘えることができず反発ばかりしていました。
中学時代は人を笑わせることが好きで、ちょっとひょうひょうとしたキャラクターの生徒でしたが、高校生になると、いじめグループのいじめのターゲットにあい、このことがきっかけで、明るいひょうきんキャラから内向的な性格に変わってしまいました。

大学は充実した4年間を過ごし、証券会社へ入り営業部門に配属されて営業業務に従事していました。
証券会社では充実しながらもハードで、ストレスにより退職してから生命保険会社へ転職。
ここでも、仕事だけでなく付き合いでもハードで、退職してからバイト生活を経て学習塾で勤務します。

3年間は充実しながらも、4年目に転勤となりますが、そこでパワハラ上司に出会い、このとき、うつ病寸前になりながらも35歳の6年目で退職し、別の学習塾にいくことになります。
しかし、そこでは、いきなり知識もないまま副校舎長と管理職を任されますが、入社してから何も教わることなく、プライドの高い講師陣からは罵倒を浴びせられ、受付のおばさんは露骨にバカにしうつ病を患ってしまいました。
なんとか、軽いうつでありながらもきりぬけますが、半年後校舎長に昇格しますが、このころは、まだ何も知らないことばかりであったばかりでなく、保護者の要求も強まり、睡眠障害に悩まされるようになります。

その後、精神病院にいきうつ病と診断され休職しますが、戻ってきたときには校舎長を解かれ窓際族とされてしまいました。
その後半年して退職し別の塾にいくことになります。
そこは体育会系のノリの会社で、うつ病を告げての入社でしたが、それも配慮されずに、むしろ校舎長経験者でもあったため期待されたために、それがプレッシャーとなりうつ病を悪化させていき、半年後、自殺未遂を起こしてしまいました。
その後退職して3年休み、催眠療法で体調も回復したので現在は、おかげさまで障がい者枠で勤務できるようになりました。

補足

子供の頃受けた傷は、その後もひきずり、社会にでてからも生きずらさを感じるようになります。
これがアダルトチルドレンというものですが、社会にでてもいじめの対象になり、社会からはじきとばされ路頭に迷うきっかけにもなります。

毒親両親と異常な兄に囲まれ、奴隷的生き方で統合失調症(診断名だけ)に

生い立ちと精神障害

・30代女性
・家族:両親・兄(精神疾患なし)・・・気持ち悪い家族
・過干渉、醜形恐怖、おねしょ(反抗期なし)⇒リストカット、オーバードーズ(睡眠薬)⇒統合失調症と診断(ただし医師の勘違いで症状悪化)⇒うつ、パニック発作、拒食症、希死念慮、自殺未遂

私は幼少期からずっと、日常的に容姿に対する悪口を言われ続けていました。
毎日毎日です。
「お前は汚い、臭い。」
「服の着方のセンスがない」
「何をやってもおかしい」
「背筋がいつも曲がっている、せむし女」
「歯が黄色い」
「髪の毛が薄い」
「歯並びが悪いから矯正しないといけないのに父のせいでお金が無い」
「鼻が低い」
「父に似て足が短い。私に似なかったから」
「足が太い」
「びっくりするほど毛深い」
など。

殴られたり、物をぶつけられたり、髪の毛を引っ張って部屋から引きずり出されたりしながら言われたこともありました。
そういう悪口を言う時の母の顔は、憎悪、嫌悪に満ちていて、心底気持ちがわるい!という風に私のことを言うのです。

かと思うと、

「クラスで一番かわいい」
「淡い色を着せると似合う」

などと褒める時もありました。
私は母の言葉を全部真に受けていましたが、今思えば、母の気分次第だったのでしょう。
母にとって私は、いつでもどこでもいじめて殴ることのできる、サンドバックだったのだと思います。
私は人から見られるのが怖くて、常に人の目から隠れて生活するようになりました。
学校で
「かな子はかわいいよ」
と言ってくれたり、
「かわいいのだからもっとおしゃれすればいいのに」
と、言ってくれたりする女の子もいましたが、私は自分を気持ちの悪いものとしか思えず、人前に出るのが大の苦手になりました。
今も仕事以外はほとんど引きこもって暮らしています。

私には「自分の部屋」という名目のものはありましたが、それは自分の部屋であって、自分の部屋ではありませんでした。
カギはありませんでしたし、母はいつでもどんな時でも私の部屋に入れるようになっていました。
前の記事でも書きましたが、私の机やかばん、洋服のポケットは全部漁られ、日記や手紙とは全て読まれ、描いたイラストは1枚1枚気持ちが悪いと罵られながらビリビリに破かれて焼かれました。
漫画やライトノベル類は絶対に許されず、友達からこっそり借りたものは見つけられて、焼かれました。小学生の私は友達になんと言って謝っていいか分からず、弁償代として自分のお小遣いを渡しました。

私は、小学校高学年になると、名目上の自室で、一人で寝ることを望みました。
「英会話の勉強をするから」
と言ってウォークマンを手に入れ、買ってもらったクラッシック音楽や、昼食を抜いて貯めたお小遣いで買ったヴィジュアル系の音楽で、耳にふたをし続けていました。
そうしないと父と母の罵声が聞こえてくるからです。

しかし、あまりに激しい物音がした場合には、暴力で誰かがけがをしたのではないかと耳をすませなければなりませんでした。
喧嘩がエスカレートしてくると、止めに入る必要もありました。

私は一生懸命、そして、ひっそりと、息を殺して自分の世界を守りました。
でも、どうしても家族と川の字で寝なければならないことがありました。
父と母はいろいろな理由を付けて、私と同じ部屋で寝ることを望みました。
それは大学生になって、たまに帰省した時もそうですし、結婚後、婚家に両親が招かれた時もそうでした。
母は主人と義父を同じ部屋にさせ、私は父母と一緒に寝るように言いました。
川の字で寝ることは強制でした。
「たまにしか会えないから親孝行だから」
と言って、同じ部屋で寝させられました。
義父も夫も、
「一人しかいない娘だから大事にされているんだね」
と言い、うちの両親の望むようにしました。
私は嫌で嫌でたまりませんでした。

高校生の時も、私の部屋にバルサンを炊いたからとか、ムカデが居たからとか、そんな理由で母と同じ布団で寝させられました。
恥ずかしい話なのですが、そうすると、高校生の私は何故か必ずおねしょをしてしまうのです。
よく母は、私がすぐにおむつが取れて、ちっとも泣かない、手のかからない赤ん坊だったことを話します。
赤ちゃんの時におむつがすぐに取れ、幼少期もおねしょなんて全くしたことのない私が、高校生にもなって何度もおねしょをしてしまうのです。

母は洋服を買うのが大好きで、部屋にはものすごい枚数の服があふれかえって、山のようにぐちゃぐちゃになっていました。
同じような色の同じようなデザインのものも何枚も何枚もあり、一度も着たことがない服もいっぱいありました。
一度も袖を通したことのない服であっても、母は
「これは品が良くて高いものだったから」
と言って、決して捨てようとはしませんでした。
そして、私のことも着せ替え人形のように着飾らせるのが大好きでした。
一番おしゃれをしたい中学、高校時代も、母の選んだもの以外着ることは許されず、私は息のつまるような思いで過ごしました。
実家から外に出かける時は、必ず母の選んだ服を着なければならず、私は外出が苦痛で苦痛でたまりませんでした。

「お前はあごが出ている」
「きもちわるい、臭い」
などと言うくせに、母は私をお人形のように扱って、上から下まで母の好みの洋服を着せるのです。
母の着せ替えごっこは最近まで続き、私が今持っている服のほとんどは母が買ったものです。
私は30代の大人の女性です。
30代女性の洋服のほとんどが、母の見立てたものだなんてことがあるでしょうか。

お金がないお金がないと言って、私に借金まで申し込んでくる母に、一体どうして服を買うお金があるのか分かりません。ですが、母は次から次へと服を買ってきます。
私は借金返済もあり、下着を買うのもケチるような暮らしをしているので、母が買ってきた服を仕方なく今も着ています。
母の選んだものを着るのは気持ちが悪く、正直全て燃やしてしまいたいです。

でもそうすると私の服がほとんど無くなってしまって大変な出費になるので、服に罪はないんだと言い聞かせて使っています。
そして少しずつですが、母が買った気に入らないものはリサイクルショップに売るようにし、代わりに自分で選んだ古着を買って、母の買ったものを無くしています。
勤め始めた頃は、通勤だけでぐったりで、朝、身支度をするのも苦痛で仕方ありませんでした。
フルタイムで働いていた時、過剰なストレスから体を壊してしまって、自傷やオーバードーズ(大量服薬)を繰り返してしまい、結局出勤することができなくなり、入院してしまいました。
当時、家族からの期待が大きくあり、しかし、体がそれに付いていかない。

親は
「私の仕事が気に入らない、もっといい職業に就けるはずだ」
などといろいろ言ってくる。

日々の業務は激務で、慣れない仕事や人間関係のストレスもあり、親の期待に沿うようになどと言っている場合ではありませんでした。

徐々に睡眠薬が多くなり、心が蝕まれ、
「家族が怖くてたまらない」
「家族から逃れるために死にたい」
「仕事を辞めるのなら死ななくては」
というような精神状態になっていきました。

病院では「被害妄想」で「統合失調症」だと診断され、入院になりました。

その診断名のおかげで、親からは本当に嫌なことばかりをされ続けているのに、何度主治医や看護師さんに言っても
「それはあなたの妄想だから」
と一蹴されるようになりました。

「とにかく薬を飲め」
と言われ、私は自分が本格的に気が狂ったような気がしました。

仕事に行くことができなくなり、入院した精神病院。

私は認知症と統合失調症の患者さんたちと同じ部屋のベッドで入院生活を送ることになりました。
統合失調症の方は、主に幻聴が聞こえるということでした。
まだ二十代半ばのように見えましたが、ずっと入退院を繰り返していて、入院は7年目だとのことでした。

昔から夜になると
「外に出ろ」
という幽霊の声が聞こえてきて、気が付くと森の中に居たということが何度もあったそうです。

薬は効かないのか聞いたところ、いろんな薬を試したが、かえって幻聴がひどくなることもあり、いまいち効かないんだという話でした。

ながながと書いてしまいましたが、もう、精神医療はひどい世界です。
医師、カウンセラーなどもはや腐敗しています。
どうか、催眠療法を広めて日本の精神医療に立ち向かってください。

補足

毒親から浴びせられる非常な言葉は、身体的虐待よりも脳にダメージを与えることが明らかになっています。

厳しい躾が2人の子供たちを精神疾患(うつ、対人恐怖)に

生い立ちと精神障害

・30代男性・・うつ病 妻・・強迫観念・ヒステリー気味
・2人の子供がうつ病、対人恐怖に

初めて、私たちの子供となる長男が生まれた。
幼い頃からやんちゃで、時々親を困らせる手のかかる子供だった。
しっかりした、子供に育てるには
「甘やかしたらいけない、厳しく育てないといけない」
と私の親から言われてきたので、子供らしい行動も、すべてしかりつけていた。
「厳しく育てれば、どんな世の中の荒波にも負けない人間に育ってくれる・・・」
というのが信念だった。

長女が2年遅れで生まれた。
いっそう、長男には兄としての自覚を促すため厳しくあたった。
また、このとき、長女までが、心のトラブルを後々抱えてしまうことになるとは思わなかった。
妻は、自分でも認めているが、強迫観念がとても強く、ヒステリーを起こしやすい。
子供たちに負の影響を与えてしまったことは想像に難くない。
子供心に恐怖を与えてしまったかもしれない。
(ここは子供たちが後に語っている)

幼稚園の時には、長男は傍目にはのびのびしていたと思っていた。
「人見知りが強い」、と保育士に聞いたことがある一方で、友達も多かった。
小学生になると、長男は給食を食べ終わることが遅く、昼休みまで残されていた。
妻はそれを気に病み、家で食事の時も厳しくしつけにあたった。
長男の食事の時、どこか緊張していたように思う。

また、買い食いやどこか帰りに立ち寄ることも全く許さなかった。
それがあったとき、妻と私は二人で長男を叱った。
長女に対する意地悪も、大目に見ることは決してしなかったと思う。
次第に
「自己主張に難がある」
と、担任が指摘するようになってきた。
クラスで手を挙げないし、積極的にグループに入らないという。
「私たちはいじめにあっているんじゃないか」
と思った。

実際、その通りだった。
私は、息子が気弱だからだ、と言う結論でいた。
だから、
「しっかりしろ」
ということを遠回しに言い続けた。

中学校は、近くの公立中学に入らせた。
私立中学に行かせようとしたが、自信喪失していた息子に、もし中学受験に失敗したら、大きな損失になるだろうと思って、長女からやらせることにした。
このときまで、長女は表面上順調に育っていたように思えたからだ。

妻とも、子育てを巡って口論が絶えなかった。
どんどん殻にこもっていく息子に、どうすることもできない無力感と行き場のない、いらだちがあった。
とにかく、社会に出たとき、学力・学歴がどこでも通用するように、生活はともかく、勉強は徹底させることにし、塾にも行かせた。
成績は得意科目と不得意科目があったが、総合順位もなかなかよく、そちらには満足していた。
でも、また中学で息子はいじめにあった。
前にも増して、息子は学校をいくことをいやがった。

特に、日曜日は憂鬱そうだった。
しかし、
「気合いを入れて行け」
ということが、そのときの私たちの方針だった。
「甘いから」
「気がたるんでる」
「社会がそういう風潮だから」
だ、と言う責任転嫁を息子と社会にしていた。

子供の気持ちを全くわかってやれなかった。
時々、申し訳程度に、家族旅行に行ったが、いつもはりつめていた空気はいっこうに変わらなかった。
そして、息子は学校をさぼるようになる。
行くように見せかけて、どこかで時間をつぶしていたのだ。

学校には自分で電話して、体調が悪いから休むと電話していたらしい。
不登校など、私たちは絶対許さなかった。
だからこそ、息子をぎりぎりまで追いつめてしまっていた。
そして、ついに息子の糸がきれた。
不登校はおろか、ずっと家に閉じこもるようになった。
妻は、もうどうしていいかわからないようだった。
私も対策のしようがなかった。
とりあえず、勉学をさせなくては、と家庭教師をつけさせたが、息子はどんな人間にも距離を置くようになっていたため、しっくりいっていなかった。

この危機的状況で、私たちができることと言ったら、児童相談所や教育・心理カウンセラーに相談することだった。
渋る息子を、無理矢理連れて行った。
しかし、切れてしまった糸は、元に戻らなかった。
息子が一番苦しんでいたが、どうしてやることもできない私たちもつらかった。

私たちがどうにかしようとしていることさえ、苦痛に感じていたようだ。
心の問題だから、と精神科に連れて行った。
精神科のお医者さんから、対人恐怖症と鬱があると言われた。
そこからの原因が強いと言われた。
不安の症状が抑えられず、薬がどんどん強くなったが、それと比例するようにずーっと布団に潜って一日を過ごすようになった。
ただ寝ているだけだった。
「もう行き着くところまで行き着いてしまった」
と思った。
怖くなって、妻は薬をやめさせ、精神科に行かないようにした。

心理療法、催眠療法を受けさせたが、何一つ得るものなく過ぎてしまった。
調子のいいことだけを言って、何の力にもなれないところだった。
カウンセラーのところには継続的に通わせた。
対話がなくなったとき、息子が壊れてしまうと思ったから。

長男と違って、長女は幼児期から小学生、中学生と順調に育っていた。
でも、これはハタ目からそう見えていたのであって、やはり、内心の葛藤が強かったに違いない。
そこの危機を見落とし、また兄のことで放任に近い感じになっていた。
でも、厳しいしつけはちゃんとした。
逆に妹だから、と甘やかした部分もあったかもしれない。
成績も良く、素行態度も特に問題はなかったし、第一志望の私立中学に受かった。

長男の問題が深刻化するに従って、長女もふさぎ込むようになってきた。
そのころから不満も強くなったが、反抗期としてとらえていた。
だから、心のケアも特にしていなかった。
そして事件が15歳の時に起こった。
リストカットを洗面所でしていたところを、妻によって発見され、救急車で病院に運ばれ、妻は気が動転していた。

長女の同級生に、リストカットを繰り返す子がいて、影響されたと言っていたが、ショックだった。
幸い、傷は浅かったが、それ以来、長女に私たちは目が離せなくなった。
長男の問題どころではなくなり、私たちの心のほとんどを、長女の問題がしめるようになった。

カウンセリングに通わせ、精神科にも通わせた。
とりあえずは、自傷行為がなくなると思っていたが、その間にもまた一回した。
やはりリストカットだった。

私も妻も狂ったように、刃物類や、切れるものすべてを徹底的に管理していた。
でも、どこにでも刃物は売っているから防ぎようがなかった。
また傷が浅いため、事なきを得たが、長男以上に急を要することだった。
どうにかやめさせたいが、ずっと拘束するわけにもいかない。
自傷行為はずっと繰り返され、家族皆心が安まるときはなくなった。
長男も妹のことはしきりに心配していた。

高校も行かなくなり、ひきこもりになった。
何をするにも楽しくないと言っていた。
「死にたい」
と言うことが口癖で、妻も私もそれを聞くと猛烈に怒ったが、長女にはなんら声が届かなかった。
その間、詩を作り、心のバランスを必死に保とうと苦闘していた。

ここに至り
「私たちの教育方針や育て方が間違っていたのかもしれない」
と言う不安がよぎった。
でも、認めたくはなかった。

社会問題としてとらえようとした。
これは現代社会が抱える病だとおもった。
「社会がそうさせているのだ
と思いたかった。
でも、健康的に育っている子供たちもたくさんいるのに、社会のせいだけには出来ないこともたしかだった。

妻を含めた私たちの自身の問題まで波及してきた。
カウンセリングや精神科に通わせていたときも、私たちの問題とはとらえていなかった。
子供たちの甘え、甘さが一番の原因だと思っていた。
(たるんでる、とは、本人たちに言わなかった。言ってしまったら、最後だったかもしれない)

娘は、自傷行為をする女友達と行動をするようになり、私たちはそれだけはしないように気を配っていたが、結局はうるさくいうこともしなかった。
ただ、万が一、二人で、ということになったら、そればかり恐れていた。
自傷行為をしていた娘の友達の家庭は問題が大ありだったからだ。

それにくらべると、私たちの家庭はそれほど問題が表面化していなかった。
だけど、娘の友達と同じ見えない何かが、娘に影響していたと今は思う。
何の解決も見ないまま、娘も、長男も、私たちも暗闇の中を進むしかなかった。

でも、子供たちがいつまでも苦しみ続けるのを見たくはなかった。
できれば変わってあげたかった。
一方で、二人の子供たちに共通すること
-私たちのしつけの方針-
がずっと私たちに引っかかっていた。
二人の兄妹が、二人とも心に大きな重荷を背負っているという事実は、私たちの子育ての間違いを突きつけるものだった。

家庭が崩壊していく中、私も心を病むようになり、仕事にも支障がでることに。
自己催眠療法は、自分でできるのでとてもよいですね。
私がまず実践した後、子供や妻にも教えてやったのですが、精神状態がよくなり、明るさを取り戻してきました。
まだまだ、子供達の子育ての問題は残りますが、将来的に精神疾患をぶりかえさない方法を習得したことで心の病にかからないことを願うばかりです。

補足

過保護に育ててしまうと、他人の気持ちがわからず他人を傷つける子供になる可能性がありますが、あまりにも度がいきすぎる躾けは子供達にトラウマ的な恐怖を植え付け、対人関係においても影響してくることもあります。

プライバシーのない家庭育ちで統合失調症に

生い立ちと精神障害

・20代女性
・父親 母親(過干渉)・・・共に精神疾患なし
・統合失調症と診断されているが、うつ病

小学生のとき、キーホルダーつきのテトリスで遊んでいると、母が
「そんなものは目が悪くなる。30分にしなさい」
と言って、毎日時間を測り、時間がきたら取り上げ隠していました。
(大人になって話をしていると、母親は「昔は変なゲームをしていて手首が痛くなったもんだ」と語る)

家を建てる前までは2Kのアパートで子供部屋がなく、あるのは学習机だけでした。
学習机には交換日記などが入っていまして、母親がこっそりチェックしていました。
このとき、
「親に隠し事をするのは罪」
と思っていました。

高校生のとき、家族そろって設計士さんと相談しながら家を建てる計画をしていた時のことです。
子供部屋の話がでたとき母親から
「あなたの部屋にドアはいらないよね。隠し事はいけないから」
と言われましたが、設計士さんが
「思春期のときにドアは必要ですよ。」
という反対で、鍵のないドアとされてしまいました。

少し過激な漫画にカバーをかけ、試しに本棚に逆さまの向きにおいていると、数日後向きが変わっていました。
このとき
「母は自分を監視しているのだ」
と感じました。

両親は中卒で、お金もなかったため、大学進学には反対していましたが、高校は進学校でかなり予習復習をしないとついていけない学校に入学します。
しかし、せっかく入った高校生活に馴染めず友達はいませんでした。
そのため、昼食のときは、食べる場所がなく一人で美術室で食べていました。

勉強を頑張るほど成績はあがり、そのうちクラスメイトから
「ノートを写させて」
「答えを見せて」
と言われるようになります。
一方で、クラスメイトからは
「金魚の糞」
と言われたり、顔のことでからかわれたりするなど軽度のいじめを受けていました。

高校2年の夏休みから、
「怠けていたら、居場所がなくなる」
と思い、塾にも通い全力で頑張りますが、
「何かおかしいな・・」
と感じ始めます。
「冬休み」が始まったとたんに、急に何事もやる気が起きなくなり、
「どうして私は生まれてきたの」
「お母さんも私が嫌いなんでしょう」
「17年間生きてきて何もいいことがなかった」
「死にたい」
と大声で泣いたりしていました。

オロオロする母。
「病気じゃない、バチが当たったんだ」
と言う父。

冬休みが終わってから精神病院に通うことになり、3学期は全日休むことになります。
3年次は最低限の単位をとって卒業し、この頃、通学は朝は起きれないので3時間目から出ることにし、通学中も疲れて道端で休んだり、電車から途中で出ることもありました。
授業中も座っているだけで、頭がくらくらし、そのうち保健室でテストを受けていました。
この頃は、毎週クリニックに通い、一番の居所でしたが、すごい量の薬を飲んでいました。
トレドミン、ルーラン、リスパダール、PZC、パキシル、アモキサン…

大学進学について、院長先生が、
「私立の大学に推薦で入れば、いつでも休学できるしデイケアよりリハビリになりますよ」
と言ってくれると、
母が逆上し
「そんな金はない!」
と言われ、大学進学は諦めました。

高校卒業と同時に、クリニックのデイケアに通い就職はせず、コンビニバイトで夫となる彼氏と出会うことになります。
実家では、親に
「彼氏を作るなら出て行け!勘当だ!」
と言われ、24歳で飛び出し一人暮らしを始め、結婚生活は幸せであるながらも通院していました。

しかし、憂鬱感やひどい疲れのため、家事は疎か気味に。
そのため、子供を産む自信もなく、ただ日々つらつらと生活していました。
ネットでも様々なブログを読んでみると、投薬治療で治った人はみかけず、むしろ症状が悪化している人が多く、精神医療に不信を抱くようになります。

「減薬したい!」
という気分になったのですが、離脱症状があって、これがとてもしんどく、なかなか上手く減らすことができませんでした。
そんなところで、御社の療法に出会います。
あれほど苦しかった離脱症状も、それほど苦にならずに減らしていくことができるようになり、今は薬を服用していません。

今は、毎朝快適に起き家事をテキパキをこなせ、自信もついてきたので、子供を産んでみたいと思うようになりました。
人生、先は暗いと感じていましたが、私にも幸せな人生を歩めるようにしてくれた催眠療法に感謝いたしております。

補足

毒親は、子供を常に監視し、自分の思うように子供をコントロールしたいという欲求があります。
子供の自由を奪い、子供を苦しめているという意識がないばかりか、それを愛情と勘違いしています。

抜毛症の方の幼少期

生い立ちと精神障害

・H.Dさん(36歳女性)
・両親健在で、幼少期のとき母親と祖母から八つ当たり的に叱られたことがきっかけで内向的な性格に。
・ストレスが蓄積し9才から抜毛症が始まり、20歳のときにうつ病発症。
・心療内科に通い薬も飲んだが、ボーとするだけで全く改善しなかった。

4才頃は、すごくおとなしくて人見知りが激しい子供で、祖父母の家に行っても、親戚の集まっている部屋に入って行けず、いつも部屋の外に逃げていました。
自分から人に話しかけるのが怖かったし、何を話していいのかわからなくて、ずっと黙っていました。
そんな私は親戚から見ると、何を考えているのかわからない扱いにくい子供でした。
でも、それは子供なりに理由がありました。

実は母と叔母がしょっちゅう小さな喧嘩をしていて、叔母から八つ当たりをされていたのです。
私は叔母から
「ぐずぐずして何もできないんだから」
とか
「目が大きくて気持ち悪い」
と嫌みを言われました。
そこで、母が言い返してくれる事を願いましたが、母は黙った後、怒った顔をして、
「あんたが早くしないからよ」
と私を責めたのです。

私は母に迷惑をかけてしまったのかな?
と申し訳ない気持ちになりました。
でもそれ以上に、私が悲しかったのは、何故、母は叔母に言い返してくれないのだろう?
何故、私を援護をしてくれないのだろう?
母は私の味方ではないかもしれない?
と感じた事が、一番の悲しみでした。
私は、何も言えず黙りこんでしまいました。
小さかった頃の私は、大人は強いもの。
絶対に敵わないものと信じていたので、言い返したらまた、どんな嫌みを言われるのか?
考えただけで怖かったのです。

これ以上、母に嫌われたくないし、悪く思われたくない。
私、何か悪いことをしたんだろうか?
どこがいけなかったのだろう?
私は自分で自分を責め始めました。
母に悲しみを伝えても、また
「あなたが悪いのよ」
と言われるかもしれないし、黙っておとなしくいい子にしていれば、もう母に迷惑をかけないかな?
そんな事を考えていました。

高校を卒業し、大学生になってもこのような考えが常に浮かんでは消えを繰り返します。
9歳の頃から、始まった軽い抜毛症も、大学のときに知り合った彼氏との関係と大学の進級で悩んだことをきっかけに激しくなります。

そんな悩んでいた姿に耐えかねたのか、
彼氏に愛想を尽かされて振られてしまいました。
その日から次第に身体が重く感じ、家に引きこもるようになります。
精神科にいくと、うつ病と診断され、薬を服用することになったのですが、頭がボーとするだけでよくなりませんでした。

それから、精神世界やスピリチュアルの世界に関心を持ち、ヨガ教室や瞑想教室に参加していましたが、効果の実感が感じられず月日が流れていきます。。
そんな中、催眠療法のプログラムをみつけ、半信半疑で実践してみました。
これまで、何年かかっても何も治らなかったのに、本当に数回の実践でみるみる調子がよくなり、家から出たくなかった気分も積極的に出られるようになりました。

今はさらに瞑想効果を高めるために、苦手であった有酸素運動を始めています。
抜毛症も以前よりだいぶ治まり、薄くなっていた部分も見えなくなってきました。
今は、はやく彼氏をみつけて結婚をしたいです。

補足

抜毛症は親の過干渉が原因で起こり、将来的にうつ病を発症するリスクが高いとも言われています。
強迫性障害の部類になり、うつ病よりも克服が困難な症状ですが、有酸素運動や瞑想法を組み合わせることで、軽減していくことも可能です。

両親の過干渉が影響しうつ病に+ASD(ADHD)

生い立ちと精神障害

・40代女性
・父親(短気)、母親 共に精神疾患なし
・解離性健忘、うつ病、ASD/ADHD

父親は短気で、すぐに物を投げたり、怒鳴ったり、ちゃぶ台をひっくり返したりする昭和的な家庭でした。
小さい頃から国立大学に入って、公務員になることを期待されて育ち、小学1年生のときに「肥満児」と診察を受け、食事制限、両親に運動を強いられ、高校2年生までクラブで運動をすることになります。

小学3年生のころまでの記憶がありません。(解離性健忘
想像して物を作る、早く走る、楽器を演奏する、休み時間に友達と遊ぶということがとても苦手な性格で、特に決まった友達がいなかったので、教室で本を読んでいたりすることが多い日々を送っていました。
中学の頃も友達はほとんどおらず、1,2年生のころはいい思い出がないため記憶がほとんどありません。
食べたいものも日曜の昼食だけ。
特に、反抗期もないまま中学時代は過ぎていきました。

高校時代は友達も少なく、高校2年で運動クラブをやめるものの、授業についていけず、嘘をついて早退していました。
このころから、食事制限が解除され太り始めていきます。
大学時代は寮生活で、集団の輪にとけこめない学生生活を送る一方、大学は運動の推薦入学ではいっていたため運動をしていたのですが、この頃は太っていたためについていけずストレスを溜めていました。
ストレス発散は、食べることと飲むことになり、ますます悪循環に・・。

卒業後、会社は両親の思い通り教員試験や市役所試験を受けますが落ちてしまい、大学教授の勧めてくれた会社にいくことになります。
どちらかというと、窓際族的な部署で、ストレスはあまりない環境だったので続けていくことができたが、年とともに他の部署の女性社員から距離をおかれるようになります。
結婚後 生活環境の変化、妊娠などのストレスで「うつ病」に。
別の病院では「中程度のアスペルガー」「ADHD」と診断されました。

頭に浮かぶ思考を制御できず、ネガティブな感情、気力と集中力低下に至って、それを何とかしようと瞑想を実践していたのですが、効果がなく挫折をしお手上げ状態になりました。
そんななか、御社のプログラムを実践することで、劇的に調子がよくなったのは本当に驚きを隠せません。
体調、精神面、自律神経、すべてが整い、快調になってきました。
どうも感謝の言葉が尽きません。

補足

この方は、解離性障害の中でも、幼少期の記憶が思い出せない解離性健忘がひどい方のようです。解離性障害を伴っている方は、将来的にうつ病になりやすい傾向にあるので注意が必要です。

人に振り回されがちな幼少時代。アスペルガー(ASD)とPMDDに

生い立ちと障害

・女性(26歳) A.Hさん
・父・母 父は社交的で躾けに厳しく過干渉。
・小さい頃から感受性が強く、人に気を使う性格(HSP 過剰同調性)
中学生までおねしょが治らなかった。
・社会になってから職を転々。人にものを頼むのが苦手で疲れる。
ASD、PMDD、うつ病と診断される, モノづくりが得意。

まず最初に長年苦しめられた諸症状から私を解放してくださり、ありがとうございました。
うつ病やPMSなどから解放され体調もすこぶる良くなり、精神的にもとても余裕が出てきました。

私はとにかく、よく泣く子供で寝ている時間が少なく、母は大変苦労したそうです。
話し始めるのが早く、2歳になる頃には今と変わらないような調子で母と会話していたのだとか。
恐らくCMで覚えたのだろうが、街中のHITACHIやTOSHIBAなどの英字ロゴをすらすら読んでいたので母は驚いたと話していました。

とにかく内向的で、皆の中心となるようなタイプの女の子(今後も登場するのでAとする)にとってはカンに触る存在だったらしく、つまはじきにされたかと思うと遊びの仲間に入れてくれたり、振り回されていました。

魔法少女アニメも好きでしたが、戦隊モノも好きだったので、男の子とよく遊んでいました。
一人ぼっちとなった時には、妹もよく遊んでくれていました。
「誰も遊んでくれないから保育園に行きたくない」
と言ったり、朝送り届ける際に車の中で大泣きして大変だったようです。
読書は、この頃から好きで、『かぼちゃ人類学入門』という絵本を特に好んで読んでいました。
引越しに伴い2回保育園を変わりましが、どこでも似たようなものでした。

新たにBという気の強い女の子が児童会に入り、AとBが親しくなったため、二人に振り回されることとなります。
2年生の頃は、Cというこれまた気の強い女の子に目をつけられ、散々でした。
3~4年生ではABと同じクラスになり、この頃の記憶は薄いので書くことがあまりありません。
後述するグループの二人とも、ABとも割とよく遊んでいたと思います。

3年生で、町内の学習塾に通い始めます。
クラスメイトであり、先生の娘で塾に誘ってくれた女の子とは同じ病院で生まれており、普段から同じグループとしてよく遊んでいたこともあって塾では楽しく過ごせていました。
もう一人塾に通っていた女の子も同じくクラスメイトで、いつも一緒の三人グループという感じでした。

5~6年生のとき、またABと同じクラスになりますが、グループが違っていたし児童会に通わなくなったので少しは楽になりました。
5年生になってできた友達二人と、アニメ・漫画について語り合ったり、二次創作小説やイラストを見せあって遊んでいました。

しかし、Bからは
「調子に乗りすぎだ、ウザい」
というような手紙をよこしたと思ったら、
「優待券があるから映画を観に行こう」
と、Bのお母さんの車で映画を観に連れて行ってくれたり
「電車に乗って近くの街に遊びに行こう」
と誘ってくれたりと言動に一貫性のない
「絡み」
が続いていました。

5年生の後半のことだったと思いますが、Aが同じ塾に通い始めます。
私はAに嫌われないよう、いつもお菓子を買って持って行き、一緒に食べていました。

Aは
「いつも貰って、悪いよ」
と言っていましたが、私はAの気持ちより自分がいじめられないよう身を守ることを選んでいました。
(今思えば、こうしていつもびくびくと他人の顔色を伺っている所がAやBの気に障っていたのかもしれません)。

6年生になると、その塾で出される数学問題の難易度はぐんと増し(国語や英語については変わらずできた)、ついには解けなくなっていきました。

先生に、
「どこが分からないんだ」
と、聞かれても答えられませんでした。

皆が解けているのに、自分だけが解けていないという状況に耐えられず、あろうことかAの答案を覗き見るようになりました(我ながら本当に卑怯だと思う)。
当然Aにもばれ
「見ないで」
と言われるようになり、答案用紙に何も書けなくなりました。

父は、宿題など見てくれなかったし、母が見てくれたのも低学年の頃まででした。
年上の友人もおらず、誰にも聞くことができませんでした。
恐らく、6年生始め頃のこと、またいつものように問題が出され、解けなかった私は答案用紙の余白に
「できるわけないだろー」
なんて落書きをしてしまいました。
答案用紙を、なぜかもう使わないプリントだと勘違いしたのです。
(今でもなぜだかわからない)
当然、先生は皆の前で私を叱り
「この塾に来た時の君の本読みは素晴らしかったんだぞ、なのに」
と落胆させてしまいました。

自分が至らないから、一人だけ問題が解けないことも、自分の過失で叱られたことも分かっていました。
ただ
「皆の前で晒し者にされた」
という感覚が頭から離ず、親に泣きながら
「塾を辞めたい」
と申し出ることにしました。

すると、父は
「自分がやりたいと言ったことから逃げるな!」
と怒り、母は
「Aちゃんとうまく行ってないから辞めたいんじゃないの?」
と心配してくれました。
いつからか分かりませんが、母には私とAの関係はお見通しだったようです。
結局、塾を辞めることを許され、その後の小学校生活は二次元オタク仲間と比較的穏やかに過ごすことができました。

23歳でアスペルガーと診断され、社会にでても不器用で馴染めず職を転々としていきます・・。

人に頼むのが苦手でした。
例えば、一人で仕事をしていて、後輩などに手伝ってほしい時。
慌ただしい朝、母に水筒にお茶を入れてほしい時。

頼もうとすると、
「イヤな顔されないかな・・・」
「自分でやってと言われないかな・・・」
「悪いな・・・」
という考えが頭をよぎり、結局頼めずに自分でしていました。

我慢して、一人で仕事をしていると、息苦しくなり、外に出て深呼吸することも出てきました。
職場の人から、
「頑張り過ぎていて心配になる」
と言われたこともありました。

PMSに悩んでいましたが、精神科通院して投薬治療を受けてもなかなか良くなりませんでした。

そして、約3年前から月経開始1週間前になると感情のコントロールがうまくできなくなり、普段よりも泣いたり怒ったりすることが増えてきました。

家ではほんの些細なことで怒り、母を困らせ、弟を怖がらせてしまうほどでした。
大声が出て、壁を蹴ったりドアをバタンときつく閉めたりもしました。
怒った後には、涙が止まらなくなり苦しくなりました。

そこで、このことを精神科の医師に相談しました。
すると、私の病気はPMSではなくPMDDであることが告げられました。
その後は、これまで毎日飲んでいた漢方薬に加え、レクサプロという薬が処方されました。

現在でも、変わらずに月経開始前の2週間だけ飲んでいます。
薬を飲んでいても、月経前になると仕事中に眠くなったり、集中力が落ちたりして困ることがあります。
また、同じ女性であってもPMDDの辛さをなかなか理解してもらえないこともあります。
現在も、PMDDのため突然ひどい絶望感に襲われ、泣いてしまうことがほぼ毎回です。
「どうしてこんなに苦しいの・・・」
と考えてしまいました。

補足

女性のPMSの不調の強さも、神経過敏さと関係があるため自律神経と深く関わりがあります。そのためHSPの方やトラウマティックな経験が多い方ほど生理のときは激しい痛みを普通の方よりも感じるようです。

中学時代のいじめがきっかけで双極性障害に

生い立ちと障害

・30代女性
・父親不在 
・醜形恐怖、対人恐怖、双極性障害2型

生まれてから1年後に両親が離婚。
親権は母となり、母の実家で育ちました。
父親の記憶はなく、会ったこともありません。
保育園に通うまで、一人遊びが普通の日常で、仕事のある母に代わって祖母が面倒をみてくれていました。

保育園に行き始めると、周りの子達にいじわるされることもありましたが、大して気にせず通っていました。
年長になると、それもなくなり、友達と仲良く遊んで特に問題なく時が過ぎていきました。
当時は母親の存在があいまいで、甘えることが恥ずかしくできませんでした。
(母と一緒にいることが恥ずかしいと思うことが高校生まで続く)
小学生の頃は、それなりに適応していましたが、感受性が強く、ちょっとしたことでよく泣いていました。(HSP気質
友人はいたのですが、人見知りが激しく、学校の外で会う事がすごく恥ずかしく4年生くらいまでは学校から帰って一人で遊んでいました。

習い事は2年生から始めたピアノだけで、毎週休まずにレッスンへ通う日々。
5年生までは女子のグループで仲間外れをしたり、また自分が仲間外れになったりを何度か繰り返していましたが、深刻な状況まではなりませんでした。

中学校は当時、ものすごく荒れており、異常事態でしたが、教師も生徒も保護者も誰ひとり問題視する人はいませんでした。
そのような環境の中で浮いてしまい、いじめるのに格好の餌食となってしまいます。
また見た目も顔がニキビだらけで、嫌がらせを受ける元にもなり、その頃の自分の顔が好きではありませんでした。(醜形恐怖
中学1年のときはいじめが一番ひどく、男子生徒から嫌な思いをさせられ、負けずに反抗したものの逆効果で悪化する一方・・。
3年生の一部の女子からもからかわれていましたが、友達がいたのでいじめに屈することなく学校に行っていました。
しかし、自分を気に入らないクラスの女の子に学校裏の土手に連れていかれて暴行を受けたことがあったのですが、そのとき、居合わせたクラスの半分以上が女子で、その中には自分の友達もいました。
平手打ちを食らい、応戦しますが、相手側の人数が多いため歯が立たず、友達だった彼女達からも暴言を吐かれ心身が壊されてしまいました。
その姿を見て気が済んだのか、私は土手に残されて後はみな立ち去っていきました。

それから学校へ行くのが怖くなり、休み始めます。
家族や先生にはこの事は話さず、ひとりで黙って耐えていました。
周囲は学校へ通うよう説得するが、だんだんと人間不信になり、
「友達なんかいらない」
と強く思うようになります。

中2のクラス替えで、かつての友達とは別のクラスになり、親しい友人もなく、ひとりで休憩時間になるといつも机に伏せって、時間が経つのをまっていました。
あの土手での暴行があってからは周囲が怖くて、廊下を歩くのも苦痛で、部活動のバスケ部でも嫌われていました。
親には、いくらこちらが辛さを訴えても分かってもらえなかったので、コミュニケーションを放棄し、家に帰ると部屋にこもる毎日となります。
3年生に進級すると、進路の話が具体的に出るものの、高校進学に興味がなくて、勉強もしませんでした。
結局進路はギリギリまで決まらず、やっと自分が行ってもいいかなという地元でない高校を受験します。

仕事はそこそこうまくいっていましたが、中学3年間の時の辛い体験は、30代前半にカウンセリングを受けるまで心にずっと残っていました。
心の奥に常に満たされない思いや孤独のような漠然とした不安があり、目に見えない世界ですので、空虚感を埋めようとスピリチュアルや精神世界を探索してまいりました。
今現在は頭が軽くなり、体も軽くなり、そして気持ちも軽くなり、雑音のない脳を維持できるようになっています。

補足

機能不全家庭に育つと、感受性が強くなりHSP気質になりやすく、結果人の感情に敏感になりストレスをためこみがちになってしまいます。
そのストレスは、成人してもが内在化し心の中だけでなく、体調にも不調を及ぼしてくるようになります。

母親の厳しい躾が境界性パーソナリティー障害とうつ病に

生い立ちと精神障害

・J.Mさん(30代女性)
・父親(優しい)、母親(ヒステリックで過干渉)、弟
・境界性パーソナリティー、全般性不安障害、うつ病

私が3歳と数カ月後の頃のことです。
年子となる弟が誕生したのですが、生後5日目、重病のため緊急手術で入院手術を受け
、その後、4度の手術を経てから退院し、弟と一緒の生活を送るようになりました。
それから、弟は体を壊しがちであったせいで
「(弟は)病気だから仕方ない」
と母からずっと言われ、家をでる22歳まで厳しいしつけを受け続けました。

父親は少し頼りないが優しく、母はヒステリック気味で口うるさい性格。
母親は自分でお金をためて大学までいきました。
しかし、その辛い人生の怨念を受けることになります。

母の顔に怯えていたせいか、幼稚園では人見知りが激しく、友達との仲違いもあり、つまらない2年間。
よく、頭を食器棚にぶつけられたり、髪を結って貰う時に、私のサラサラの猫っ毛が嫌いらしく、
「ほんとにイライラする毛だね!」
と、よく髪を引っ張られていました。
当時は、角ばった細いテレビのリモコンを私に投げつけるなど、口より先に手がでる母。
小学校は引っ越しのため、みんなと違う小学校へ通うことになりましたが、そこで、担任を含めたいじめに合い、親にも相談できないままでいました。
赤ちゃんの頃は、母乳ではすぐ吐いてしまうため、数カ月で栄養失調となり、強制離乳食へと変換させ、やっと育ったそうです。
なので、給食の牛乳が飲めずにかなり困りました。

母や、祖母(父方)に
「砂糖を入れれば飲める」
「飲むまで遊ぶな!」
と言われましたが、そのたびに吐くので諦めました。
その他、白米が食べられず(合うおかずなどがあれば食べれる)、残すたびに担任に謝りに行き、泣く毎日でした。
小学校2年の運動会の頃、徒競走で靴が脱げ、ビリになり、帰宅後、母に
「はずかしい!」
と怒鳴られたことがあります。
そんな経験がいくつか重なったせいで学校が大嫌いになり、ストレスもあってか、小学校2年のある夜、片頭痛に襲われ、嘔吐を繰り返したため、病院へつれていかれたことがありました。
「異常なし」
と帰されましたが、それから今日までひどい片頭痛で悩まされるきっかけとなります。

小学校4年でバスケを始め、6年で県大会、副キャプテンに選ばれました。
その頃、いじめなどはありませんでしたが、
「母の許す友達としか遊んではいけない」
と制約を受けていました。
母の想像を超えた付き合いが始まると、どんな些細なことでも
「調子に乗るな!」
と怒鳴られていました。

また、小学4年ころからパートに出ていた母が帰ってくると、
「ご飯くらい自分でつくりなさい。」
と怒鳴るので、それから、姉弟のどちらかが作るようになりました。
おかげで、料理は作れるようになったのですが・・。
小学5年くらいから
○○高校に行って、○○大学の○○科に行って
公務員かNTT社員になりなさい

と進路に関しても指図を受けるようになります。

中学入学と同時に転校になりますが、目立つという理由から、部活の先輩よりいじめを受けたものの、同級生とは仲が良かったので楽しく通えていました。
しかし、門限は18:00。
部活後ダッシュで帰らなきゃ間に合わない。
友達を家に呼ぶことを禁止されたり、友達制限もありましたが、この頃は従うほど従順ではなく、反抗期に突入していました。

中学から、高校3年までバイトがない夕飯時は、毎日喧嘩、怒鳴られる、たたかれるの繰り返しの日々。
中学2年で非行に走り、高校1年まで続きました。

当時、彼氏がいましたが、そのころからボーダーラインの気がありました。
中学3年で進学の話になると、英語科を選ぶ私にやたら商業高校を進める。
当時、非行中ではあったが、成績だけは10位以内に入っており、英検もすでに準2級取得していたのですが、その件で喧嘩が絶えず、結局、一番近い公立の普通科へ入学することにしました。

何のために生まれてきたのか。。
この命は、母にすら重要じゃないんだとリストカットを何かあるたびに行うようになります。
高校はほとんど、単位とれるくらいしか行っておらず、15歳から暴走族とつるみだし、かつあげをしたり、万引きをしたり、煙草も始め飲酒もしていました。

1年の途中、すごく良い先生に怒られ、心を入れ替え勉強しなおし、3年の受験期には、とある国立大学に入りたくて、1日8時間勉強+家に居たくないのでバイトをしながら英検2級に合格しました。
5教科で470点ほどの成績を保ち、英会話も独学でほぼできるようになりました。

ある日
「あんた、なんでそんなに勉強してんの?大学?うちお金ないからね。公務員試験受けなさい!」
と強制的に夏休みセミナー(無料)に通うことになります。
試験当日、2次試験まで受かってしまったので、小論文にまったく関係ないことを書いてわざと落ち、その後、専門学校に入り、卒業後は仕事を転々とすることになります。

4社目で働いたところは、派遣での営業社員として勤務していたのですが、世に言うまさにブラック企業でした。
朝5時から夜中2時まで働き、休みは月に1~2回。
営業なので残業代0で、月平均250時間残業で胃潰瘍か、よくトイレで吐血し、上司と喧嘩して退社しました。。

5社目も大手IT会社へ派遣社員で入社しますが、お局様に執拗ないじめを受けますが、仕事を評価してくれる人たちが周りにいたので全身じんましんが出ながらも続けていました。
そんな中、彼氏に出会い私にとって二人目の子供を妊娠します。
仕事が決まったばかりで、新卒の彼に養う力はないと判断し中絶します。
その後、精神的に不安定となり、精神科に通院開始。
全般性不安障害の診断を受けることに。
投薬治療をするも、家から出る事ができない。
彼から離れられない。
自殺未遂などが重なり、彼が休職し、共倒れで実家に強制送還すると同時に婚約破棄。
その頃の病名がボーダーラインで、突然糸がキレ、うつ病になってしまいました。

現在は、おかげさまで精神状態も回復し、結婚相手を見つけるため意欲的に活動しております。

補足

境界性パーソナリティーの方もうつ病を発症とともに機能不全家庭から発症するもので、共に精神状態のコントロールが効かなくなる症状です。

教育家庭の抑圧された環境が引き起こすうつ病

生い立ちと精神障害

・F.Hさん 30代男性
・父母・・躁鬱気味 エリート一家
・うつ病

アメリカで思いもかけず孤独感がひどくなり、憂鬱でふさぎ込むことが多くなりました。
元々、前向きな性格で元気旺盛で生きてきただけに、どうにもならない自分にショックを受けていましたが、おかげさまで立ち直ることができました。
では、私の生い立ちからうつ病になっていった経緯について書かせて頂きます。

父はトップクラスの大学を卒業し、大企業の重役。
その影響もあり、教育、躾けの厳しい家庭に育った。

母は国語の教員で、曲がったことは嫌いな性格。
家族自体は躁うつ気味で、父もふさぎ込むことが多く、母は感情の起伏が激しかった。
社会的体面を気にし、家族から落伍者がでないような雰囲気の家庭だった。

兄弟は皆優等生ながらも、ピリピリした雰囲気の教育家庭環境。
怠けることに罪悪感を感じ、責任感の強さで何でも抱え込んでしまう性格がうつ病のきっかけになっていく。

家は広く、小さい頃から個室が与えられ弟と一緒で、弟の面倒を見ることが多かった。
そのため、「兄」としての役割をプレッシャーとして感じていた。
この頃から、責任感が強くなり、
「頼られる」
「頼られたら断ることができない」
などの性格が現れてきていた。

子供だったので、楽しみたい気持ちはあったが、母から弟のおもりをきつく言われ、羽目を外すと殴られ、抑えつけられ親に逆らえなかった。
そのため、いつも親の目を気にして生きるようになっていく。

成長すると、数多くの習い事も通わされるようになった。
そのため、放課後のびのびと遊ぶ友人がうらやましく思ったが、それが自己鍛錬になると教えられ自分にも言い聞かせ習い事に通った。
こういった思考が
「思う存分楽しむことに罪悪感」
を感じていくようになったのだろう。

母親は教員だったこともあり、時にはスパルタ式教育もあった。
その結果、兄弟はみなトップクラスであったが、兄弟間でもプレッシャーとなり遊びや楽しむという気持ちが奪われてしまった。

頑張り屋で、生真面目で融通が利かない子供となり、考え方に柔らかさがなく柔軟に対応できなくなった。
周囲にちゃらんぽらんがいると
「あんな生き方で大人になってから、絶対不幸になる」
と軽蔑していた。
両親とも、
「こうあらねばならぬ、こうでなくはてならぬ」
といった考えを持っていたから、私も輪をかけてそれが強くなってしまった。

学校では学級委員をやり、担任の受けがよく生徒会長にも立候補したが落選。
(このとき、大きな挫折感を味わう。)
猛烈に勉強して、高校や大学でも成績は優秀だった。
勉強は苦ではなかったが、気分の波はこのころから確かにあり、うつ病の兆候があったのではないかと感じる。
人から頼られると、頑張り何でも背負い込み、能力以上のものまで抱え身動きができないときもあり要領よくできることができなかった。
とはいえ、学生時代は全般的に楽しいものであった。

就職先は希望の会社に入ることができ、上司からも信用され、やりがいのある仕事を任されていた。
働いていた職場はかなり過酷で、休職や辞める人間も多かったが、
「精神的に弱いからうつになるんだ」
「仕事ができない奴は落ちこぼればいい」
とさえ思っていた。

また、交際していた女性と結婚し子供を授かる。
「立派に育てよう。父のようにはならないぞ」
と誓った。
勉強はさせるがもうちょっと柔軟にいきたいと。
しかし、感情を出さず育ってきたため、生まれてから
「どう接すればいいのか?」
戸惑ってしまう。

子供が生まれたことで責任感が増大し息苦しく感じるようになってしまった。
家庭と仕事面での負担増で次第にストレスがたまっていく。
カウンセリングルームもあり、そこに相談してればよかったが、会社に筒抜けになり出世に響くというプライドもあり相談しなかった。
そんな中、念願であった海外勤務も決まり、認められた感じがして嬉しかったものの、海外生活の環境変化と孤独と責任倍増で、心は悲鳴を上げるのはそう遠くはなかった。

出世に結婚と充実していたように思えていたが、海外勤務と生活で、もう心が持たなくなってきた。
前のようには動けない自分に戸惑い、たくさん本を読んだり、精神修行をしようとヨガをはじめた。
海外生活は妻も不慣れだし、国が変わるごとに、環境の激変に戸惑っていた。
一番じっくり腰を落ち着けたアメリカでの生活で、完全に鬱病になってしまった。
子供も環境変化について行けず、妻もその問題で心労を抱えてしまう。

補足

エリート一家、親が教師、世間体を気にする親の中には、完璧主義で過剰に教育熱心な方が多く、その結果、勉強を押し付けたり、子供を遊ばせる時間を持たせないなど自由を奪う親も多いようです。
その結果、プライドが高くなり、悩み事を人に相談せずに1人ですべてを抱え込んでしまうようになります。

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愛媛松山催眠療法(ヒプノセラピー)のMind Create
~潜在意識のコアから改善 新しい自然治癒療法!~

当催眠療法では、薬を利用せずに副作用もなく、精神状態を即効で高めてくれる画期的な自然療法です。
軽い鬱症状から、治りにくいとされるメランコリー親和型以外も短期克服可能です。

うつ病(メランコリー、ディスチミア)、双極性障害Ⅱ型、解離性障害(離人症)、全般性不安障害(GAD)、社交恐怖症(SAD)・あがり症、パニック障害、HSP気質、慢性疲労症候群、リストカット、視線恐怖、不眠症、摂食障害など自律神経失調に関わることの多くは改善可能です。

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